
て、三年生の終わりに普通小学校に出しました。
当時私どもは船橋市に住んでおりました。このころには主人が東京本社に転勤がかない、親子が一緒に暮らすことができました。普通小学校ヘインテグレートすることは、容易ではありませんでした。教育委員会へのお願いと小学校校長へは、ろう学校の担任と親が出向いて改めてお願いをするという形をとりましたが、時間がかかりました。
小学校では毎日が目を見張るような体験の連続だったと思います。マンション内の遊び友だちと一緒に、同じ学校へ行ける喜びは大変なものでした。
補聴器をしている生徒は全校で息子一人だけでしたから、クラス中で、珍しがられました。胸に二つしているものを出して見せたり、触らせたりして、どこから音が聞こえるのかを理解してもらったそうです。知識の全くない他の学年の生徒に追いまわされて、補聴器をとり上げられたときは困りました。後になって思ったのですが、全校の生徒さんの前で、校長先生が聴覚障害を持った息子について、一言説明をしてくださる機会があったらよかったのにということでした。と同時に、私ども親にも責任の一端があり反省すべき点でした。
一番骨を折ったのは音楽だったと思います。中でも笛を吹くのは大変な努力が必要でした。歌っても音の高低がなく、音の長さもつかみにくい聴障児は、たて笛を吹いて曲の感じを表現するなどは至難の技です。「イエスタデイ・ワンスモア」の曲を吹いて百回目、深夜になっていい音色に仕上がったのは、今でも忘れられません。
中学枝では二年まで船橋市でした。三年は主人の転勤でまた新潟に戻りました。
前ページ 目次へ 次ページ
|

|